インストラクショナルデザイン理論とモデル (ライゲルース他 2020)

 「学習者中心の授業」と銘打つ「インストラクショナルデザイン」ではあるが、もともと授業というのは学習者が中心にいるものであり、それをことさらに言う必要はないように思う。

 それよりも、重要なのは、学習者は自分一人では高度で複雑な学習に参画できるようにはならない、かといって高度で複雑な学習を簡単な学習に置き換えるわけにもいかない、という点だろう。

 昔、吉本均は、学びの共同体なるものは普及しようとしている状況に対して、「自発性」と「自主性」は違うということを指摘して、何も指導しない教師を批判した。

 こうしたアメリカの教授法が輸入されてくるたびに、「主体的学習者を育成する」方途が含まれているのかどうかという点に着目する。OECD2030が多くの国で具体性に欠くため教育実践に生かすことが難しいと批判されるのも、同様の問題をはらんでいる。

 インストラクションは学習者個人の能力や特性に適合した学習の提供によって学習効果を得ようとする。学習者の能力の多様性に真摯に向き合おうとするとそれは当然のことであるが、一斉授業が中心の日本の公教育の中で、学習者個人の適性の照準を合わせた授業を行うことは至難の業である。

 

 その解決策としてICT機器の利用を上げるのは違うと思う。確かにICT機器は新しい授業の構成と方法を提供しようとしている。授業などを見ていると、根本的に授業計画の方法と観点を変えていかなければならないと感じることは多い。「個の学習」の要素と「集団の学習」の要素との関係性をどう考えるかという点で本書は示唆するところが多い。

 

 この何十年か、教育政策はころころと言葉だけが変わる。

わからない言葉が頻繁に出てくるので、現場の教員は今までの自分の授業ではだめなのかと不安に陥り、文科省のいうことを聞かざるを得ないような状況に追い立てられてきた。積み重ねが重要な授業力の向上において、このようなころころ変わる政策は、教師の授業力向上の妨げにしかならない。

 

 授業に関して言えば、常に新しいものを追い求める必要はないのだと、自分の教師人生の中で不易の部分をしっかり積み重ねながら、新しい方法論を取り入れていけばよいのだと、誰かが言わないといけない状況になっている。