思考する教室を作る概念型カリキュラムの理論と実践

 論理的思考力の育成が中学校から高校ひいては大学にかけて必要とされてきた。これはいつからということもなく、ずっと昔からそうであった。文科省などの教育行政的には、呼び方も変化してきたし、焦点化されるポイントも変わってきてはいるが、結局論理的に物事を考えることは普遍的に社会で活躍するためには必要な能力なのであろうと思う。

 最近は、大学入試自体の見直しが進められ、「自分の考えを形成し論述する」能力の育成が求められている。社会の様々な課題に向き合う時期を高校時代まで下げていくことで、職業選択の段階で、つまり大学を選択する段階で、ある程度社会の実態や諸課題に関する理解を持って判断させるべきだという考えは賛成できる。

 多様で複雑な事例を分析し、異なる対象に適応したり、問題点を導き出して将来に備えたりするには、抽象的な概念を使うことが必要となる。概念をまず理解し、そして具体的な事例に対して分析のツールとして使っていくことがスムーズにできるようになるまでには時間がかかる。本来、大学生になってから、自分でトランスするようになるまで、なかなかこの能力がしっくり身についている人を見ない。

 大学の授業をしていて、具体(事例)と抽象の往還による分析をスムーズに行えない感想文みたいなレポートをたくさん読むのはこういった能力が身につけられていないからであろう。

 本書は、かなり早い時期から、概念を用いた操作的な学習を行うことを主張している。それはとても魅力的なことなのだと思うし、わが国でもある一定の部分については実践の中に取り入れていけばよいとも感じた。

 

 しかしどうだろうか。アメリカから様々な授業法や学習方法が輸入されてくる。こうした輸入品を権威付けして教育現場に下ろしてくる文部科学省と御用学者が多い中で、それでも1990年代くらいまでは、それに拮抗するような民間教育団体が数多くあり、日本の子どもをいかに育てるかという日本的な手法の模索が続けられていた。いつのまにか、消えてしまった。

 概念型カリキュラムの難しいところは、アメリカと日本では、抽象的な概念の獲得の難しさが違うところにある。概念化されたものの多くが西洋的な学問体験の中から翻訳されてきたものであるがゆえに、しっくりとした日本語としての定着を見ない。だから何でもかんでも一つの概念に入れてとらえてしまうため、具体と抽象の帯に齟齬が生じる。

 思考や分析といった情報操作において、具体と抽象の往還運動がその重要な部分を占める以上、何とかして諸所の専門的抽象的概念を理解させなければならない。そしてそれを活用して物事や課題の分析を進めさせる学習を置く必要がある。

 日本の子どもはアメリカの子どもとは言葉の獲得の道筋が大きく異なっている。概念の獲得は抽象的な語彙の獲得と連動している。抽象的な語彙はそれだけで運用すると、格好はよいのだが伝達効率が悪いため日常生活の中ではあまり使用する機会がない。それゆえにあえて教室という場で使わせることが重要となる。小学校高学年あたり、経験的な事例の積み上げが満ちてきたあたりから徐々にこの抽象的な語彙を育てる手を打つことが、高校に入って、本書で示されているような概念を活用した学習を実現するためには必要であろうと考える。